こるこには、さばと行く。

過去の自分に、今のオレかっちょいいと言わせたい日記。

母の日と父の日に贈る、花に込める思い。

私たち母娘は父からDVを受けていた、というのは前に少し話したと思う。

 

現在、施設に入って一年を過ぎた。

 

母の誕生日を祝わなかった代わりに

私は母の日に小さなカーネーションのブーケを送った。

黄、橙、薄緑のビタミンカラーで和やかなブーケだ。

 

母には情熱や愛を表す赤や

可憐で愛らしいピンクは似合わない。

 

豪胆で人好きのする母だから

調和をイメージさせるようなオレンジや黄色、緑のブーケを選んだ。

 

花言葉

橙が純粋な愛

黄が嫉妬、軽蔑、失望

緑が癒し

 

そのブーケをそっと実家のドアノブにかけてきた時には

花言葉の意味なんて知らなかったけれど

まんま今の私の心情を表したようなブーケだった。

 

その図太さや無神経さに救われて愛しいと思ったこともあるけれど

いつまでも言葉が届かない、届いても響かない落胆もあった。

彼女にはおそらく今も私の声は届いてない。

あれから2回母に会ったけれど

母は私が家を出て行ったことに関して

まるでなかったことのように振る舞った。

それにすごいがっかりした。

遠い親戚にでもなってしまったかのような他人行儀な振る舞いに。

母は細やかな神経なんて鼻から持ち合わせていないから

そんなことを期待しても無駄だとわかりつつも

私がどんな気持ちであなたにもう一度電話しようと思ったのか

あなたはそこすらもわかってくれなかったのかと。

 

それ以降、花を贈るという行為は

自分で言うには少し気に食わない表現をするなら

人より心が繊細で言葉少なな私にはぴったりだと思った。

言葉にできない強い思いを物言わない美しい花に託すということが。

そして花にはポジティブな意味とネガティブな意味を両方持つものがある。

それがまた人の心を表しているようで素敵だと思った。

 

私は父の日もたった一本黄色のバラを贈ろうと思う。

 

父の日に黄色のバラを贈ることは慣習となっているらしいけど

誰に贈るかによって花言葉が変わる。

黄色のバラを恋人に贈ると

薄らぐ愛や笑って別れましょう、という意味があるらしい。

 

恋人どころか父を愛したことは一度もなかったけれど

なんとなく贈りたいと思った。

 

憎しみを込めて贈るわけじゃない。

 

自分があの人を許すために必要な儀礼だと思うから贈るのだ。

 

あの人がどう受け取るかはわからない。

ただ忌々しいだけなのか、もしほんの少しでも愛が残っているのならば

複雑な気持ちになったりするのか。

 

私は一度だけ父の愛を垣間見たことがある。

 

ふきという絵本が父の枕元に置いてあったことがあった。

本邦初公開となるが、私の下の名はふきという。

 

切り絵でいかにも日本昔ばなしの絵本には

ふきという強く儚く死んでいく少女と

その死を悼む男が語り手としてこの世に遺されて終わる。

 

ふきという少女の執念深さには

幼少期の私の根っこの部分にひどく共鳴して涙が止まらなくなった。

周りの人間がどう思うかよりも

自分が行くべきと決めた道を突っ走って

敵うまいとわかってても一人で戦いに行って

あっけなく死んでしまう。

 

 

まんま私の生き方そのものだと思った。

 

それを父がどんな気持ちで読んだのかわからないけれど

きっとおそらく私と同じようにやるせない気持ちになったと思う。

 

父は神経質で劣等感とプライドが高く

自分の思い通りにならないこと、約束を違えることや

裏切りが絶対に許せない人だった。人に見下されるのが我慢ならない。

だから強くあろうと振る舞って、それでも内面はボロボロなのだ。

人を許さないから、もちろん自分の妥協も許さないし

そうあるべきを体現しようとしている人だった。

実際にそれを叶えるだけのパワーも持っていた。

因みに父が好きな映画監督はハードボイルドで繊細かつ

信念を曲げない、つよつよで漢すぎ作品輩出しまくりの

クリント・イーストウッド監督である。

 

嫌だと思いつつもそこは同じ遺伝子だからなのか

あの人と私の心はよく似ている。

父が映画プロデューサーだったこともあり

ホラー映画、戦争映画、漢映画は見せられまくった。

と言うか、父がいるときにはバラエティは見れなかったので

テレビはだいたい映画かニュースしか見た記憶がない。

あと夜中中ずっとうん百万のオーディオセットで大音量重低音で

大クラシック演奏会を開催するのもほんとまじでやめてほしかった。

しかも、それを近所迷惑含め抗議したところ

「こんな素敵な音楽を夜中にかけてやってるんだ。逆に安眠できるだろ。」

ともはや無茶苦茶な主張をし始めて、安眠妨害で訴えてやりたかったし

なんなら警察にしょっぴいてもらいたかった。

そもそも私はクラシックが嫌いだとかそんな話はしてない。

夜中みんな寝てるんだから音量を下げろと言ってるだけだ。

 

今思えばおもしろおかしく聞こえるが

うちの家族まじで話通じない奴らばっかだったなぁと思う。

そういった趣味嗜好の押し付けは当時の自分には迷惑極まりなかったけれど

父が持つ知識や感性は意外にも自分が思っているほど嫌いじゃなかった。

 

ただ私はあの家では人じゃなくて、おまけだった。

グリコに付いてくるおまけ。

あったらちょっと嬉しいけど、別になくてもいいやつ。

そいつが面倒かけ始めたら、こいつめんどくさいらないってなるじゃん。

 

つまり、私には人権がなかった。

家族という体を取りつつも話に加わる権限がなかった。

おまけに父と違って私はできの悪い劣等生だ。

 

負けん気はそれなりに強い方だったと思うが

要領が悪くてずっと負けっぱなしだった。

 

最初のうちの負けは原動力になるけれど

それはいつかの勝ちのための原動力であって

成長してる!次こそはいける!を得られない負けを重ね続けて

勝ちへのモチベーションを持ち続けることは難しい。

どんな分野であれ、それができる人をきっとプロと呼ぶのだろう。

 

あの頃は自分の未熟さに歯ぎしりの絶えない日々だったが

私はそれでよかったと思っている。

子どもなんだから未熟でいいのだ。

立派じゃなくていい。生意気でもいい。役立たずでいい。

過去の自分として戻りたいとは思わないけれど

今の私があの頃の自分を許してあげられる大人として

そばにいてあげられたらと思った。

 

タイムマシーンに乗ったら、こう言うんだ。

「よう!未来からきたお前だ。未来のお前はけっこう幸せにやってるぞ。

お前はこの先プロにはなれなかったし、今からのお前の人生まぁまぁしんどいけど

今は唯一の理解者を得て、お前が本当にほしかったものは全部手に入った。

だから、そんな目で睨んだり歯ぎしりしながら生きていかなくて大丈夫だぞ。」

って。

おそらくこの程度じゃ、あの頃の自分には

「何を言ってるんだ、この危ない奴は。」と一蹴されるだろうが

それでもめげずに毎日あのこまっしゃくれに話しかけるのだ。

なぜなら、あの頃の私に必要だったのは頼ることができる心優しい大人だったからだ。

 

 

私がさばと出会ってもうすぐ一年に近づこうとする今

最近身をもって知ったのは、人を許したり人を慮るような気持ちで行動すると

なぜだかその優しさは直接もしくは間接的に自分に返ってくるのだ。

それがなぜなのか未熟な私にはまだわからないけれど

これからもその優しさを配れるくらい余裕のある自分でいたいと思う。

 

それはきっとこれからの人生に幸せを重ねていくことだと思うから。

 

 

そんな気持ちがほんの少しでも父に届いたらいいと思う。