こるこには、さばと行く。

過去の自分に、今のオレかっちょいいと言わせたい日記。

物の終わりと、系譜。

物が壊れるとき、それは物の役目を果たし終えたときなんだと思う。

 

私が割と最近まで気に入って使っていた

I'm thirsty というロゴが書かれていた500mlボトルは

どしゃ降りの雨の日に、カバンの中もどしゃ降りにして割れた。

「おまえはもう十分潤ったから、俺はもう必要ない。じゃあな!」

という感じに潔くボトルの底が一刀両断ぱかっと割れていた。

 

昔、母が飼っていたペットのうさぎビビクロも

私が高校卒業した次の日すぐに逝ってしまった。

彼は私よりもずっとあたりまえに私たちの家族だった。

私は彼を撫でるばかりでろくにお世話したこともないけれど

なぜかその時は小さく固くなった彼を抱いていた。

小さい頃に擬似冬眠させてしまったキンクマ

最愛のカールゴッチの冷たさと固さを知っていたから

温度が薄らぐ体を冷たいケージに戻すことができなかった。

結局その日は小学生の時と同じようにビビを抱えたまま朝まで起きていた。

どうしていいかわからなくて離したら重さを失う気がして

なんとなくそうしておかなければいけないような気がした。

 

 

あたりまえは小さな一つを欠いただけでも

もうあたりまえではなくなってしまうらしい。

 

父方の祖母が亡くなったときも

私と最初に出会った時からもうほとんど話せなくて

思い出なんかほとんどないに等しかったのだけれど

なぜだか涙が止まらなかった。

もう大泣きするほどのガキンチョでもなかったし

死が怖いとか涙もろい感動屋でもなかった。

 

時に、私はなんの因果かわからないけれど父方の曾祖母

祖母の母にあたる人と同じ生まれで好物まで同じだったりする。

なんなら曾祖母の誕生日会でわざわざ用意された

彼女の大好物のカニを当時3歳にして横から奪って食い荒らした武勇伝まである。

最悪のガキである。

 

その所以からか祖母の安らかな顔を見たとき

大切な血脈が途絶えてしまったような気がした。

私自身が悲しいのではなく本能が泣いてるようだった。

 

最近なんとなく感じるのは全ての縁はどうやら

繋がっているらしいということだ。

物との出会いも、人との出会いも、言霊一つ取っても

出会いによって人は歪められていく。

 

生まれたばかりのひょろっちい芽も、ちょっと育った若木

出会うことで幾多の人生に選択、枝分かれが生じて

あるはずのものがあったりなくなったりする。

人の心を道を変えてしまう。

そうやって丈夫な木に育っていく。

根っこが子供の時からずっと変わらない人は

きっと杉の木のようにまっすぐでっかく太陽に向かって育っていくんだろう。

 

私の中にも木がある。

イメージに一番近いのは松の木だ。

グニャグニャ曲がってまっすぐ生えないし、とても手がかかる。

幹も枝も細っこくてすぐ折れそう。葉っぱはトゲトゲで触ると痛い。

でもお正月のおめでたい時なんかは門松になって

目立ったりなんかしちゃって、みんなと宴を楽しんじゃったりして。

そして、ゆくゆくは和風庭園にこの人ありと言われるべく

出会いによって手入れされ、長い年月をかけてゆっくり育つのだ。

 

その長い年月を全てじゃなくていい。

大切だと思うもの、時間を共にするものだけは

せめてできるだけ丈夫に長生きしてほしいと思う。

そして一緒の時間を過ごしてくれたらとても嬉しい。