こるこには、さばと行く。

過去の自分に、今のオレかっちょいいと言わせたい日記。

施設に来て一年、母との再会。

私が施設に来てから1年あまりが経った。

 

昨年の冬、引きちぎるようにして置いてきた母と

今日、久しぶりに実家で会ってきた。

 

母は私の話を聞きながら、終始鼻を啜っていた。

私も母の姿を見たら、なぜだか涙が止まらなくなっていた。

悲しいわけではなく、ひどく懐かしい感じがした。

この1年、私なりにがんばったこと。

今の施設での暮らしについて話した。

 

私が家を出たのは、父が原因だった。

あの人は、プライドが高くそれを傷つけるものを誰一人許さなかった。

社会的な評価は高かったが、家では思い通りにならないと暴言を吐き散らかした。

時にそれは言葉ではなく肉体的な力として行使された。

 

いつだったか、父と母が口論をして母が突き飛ばされた時に

ガラス張りの引き戸が割れて怪我をしたことがあった。

母は「救急車を呼んで」と弱々しい声で私に言った。

そのとき父は私の行動を止める為か

声も出ず呆然と立ち尽くすしかできなかった私を抱きしめた。

それが私は死ぬほど嫌だった。

何より電話もできない、その腕を振り払うこともできない

圧倒的弱者でしかない自分が死にたくなるほど大嫌いだった。

 

私にとって、あの家は絶望の塊だったのだ。

物に溢れ、空気は淀み、いつ爆発するか知れない父に怯え

常に危機察知のみを研ぎすまし、希望は何一つなく

心がどこかで死んでいた。

思考することを拒否し、死にたいと毎日祈り

父をどうやって殺すかということばかりが脳内を支配していた。

臆病者の私はどちらの勇気も持ち合わせず、結局怠惰に生き延びた。

 

久しぶりに帰った家は風通りがよく爽やかだった。

実家は賃貸だったから、私の部屋は以前電話で伝えた通りに片付けてもらい

今は母の部屋となっているようだった。

相変わらず家全体の物量は多いけど

リビングに母好みの多肉植物が並べられていたり

父好みの美術系のポスターが貼られていたり

二人だけの家になっていた。

 

それをみて、最初からここは私の居場所じゃなかったんだ、と悟った。

子どもが両親を選べないように、両親もまた子どもを選べない。

一緒に逃げようと提案したとき血が繋がっている私よりも

赤の他人で理不尽な父を選んだ母にただただショックだった。

でもそうじゃなくて、最初からこの家は私の家ではなかったんだと

家を出てから、ようやく当たり前のことに気づいた。

 

子どもは親にとって線引きのできない他人なのだ。

扶養義務を負い、戸籍上でも、遺伝子的にも、血縁で

同じ環境で暮らし、姿形、性格、思考が似ようとも

自分と似ているだけの別の生き物なのだ。

 

両親は恋愛結婚だった。

そこに子どもという得体の知れない何かが二人の間に加わる。

生まれたばかりの私はきっとかわいかっただろう。

何も知らず、何もできず、自我を持たないから。

 

問題は子どもの自我が芽生えてからの家族の関係性だ。

 

私は誰に似たか知らないが妙に冷めた子どもだった。

将棋という誰のせいにもできない逃げ場のない

白黒はっきりさせる世界がそうさせたかのかもしれないし

自分という人間がそういった性質をもともと持ち合わせていたのかもしれない。

父は激しかったが、理知的で行動力決断力があり、武将みたいな人だった。

母は感情の機微に疎かったけれど、おしゃれで社交的で多くの人から愛されていた。

とにかく性格は両親どちらにもあまり似ていなかった。

 

物心ついた時、毎週のように会う叔父にも人見知りをするような子どもだった。

しかも、他の子に混ざれず一人で泥団子を作るような子だったらしい。

それは学生時代も続き、ほんの少しは友人がいたけれど

積極的に人と関わらなかった弊害なのか、他人への思いやりが欠落していた。

悲しみや怒りの気持ちはすぐに理解できるのに

人の喜びや楽しみにはほとんど共感できなかった。

世間の流行や人の行動に全くと言っていいほど興味がないのだ。

どこぞの服がかわいいとか、どこぞのスイーツが美味しいとか。

外見的なことや物質的なことに全く興味がない。

 

しかもめちゃくちゃマイペースでわがままだった。

他人に急かされたり指図を受けるのが大嫌い。

自分が理不尽と思ったことや納得できないことには一切耳を貸さない。

小学生のとき絵や文章を書きたかったから、新聞係を作った。

将棋部がない高校で大会に出れなかったから、将棋部を作った。

自分がやりたいと強く思うことしか精力的に活動できなかった。

それを認められることもあったし

協調性のなさから見放されることもあった。

 

基本的に人に合わせることに煩わしさを感じるから一人で行動し

良くも悪くも自分が好きなものだけにしか興味を持たない。

独自の世界観を構築しセンスは人といろいろズレている。

オタク気質だけれどオタクと言えるほど造詣は深くないし

人と自分の好きなものを共有したいとも思わない。

私の興味はいつも自分にだけ向いていた。

 

そんなインドアで内向的な私のことを

系統の違うアクティブな両親には全く理解できなかったのだと思う。

 

むしろ苛立ちを感じていただろう。

自分の子どもなのに、なぜこんなこともできないのか。

なぜこんなに手がかかるのかと。

自分自身、本当に不出来な子どもで申し訳ないと今では思う。

両親が私に投資した金額と、何一つ見合っていないだろう。

今の私は何者でもない。何の肩書きも持っていないのだ。

 

 

私は悲しくも学校のお勉強がさっぱりできなかった。勉強嫌いの努力嫌いだ。

唯一、小学生の頃だけは全てが新鮮で学ぶことが楽しかった。

それは小学生の勉強は日常的に必要で、結果がいつも身近にあったからだと思う。

文章を書くとき、漢字を書けた方がかっこいいとか。

お小遣いで、お菓子何個までなら買えるとか 。

 

勉強は文字通り、強く努めなければならない。要するにしんどい。

努力嫌いなのは、結果がでない努力なんか無意味かつしんどいからだ。

努力はいつか報われるだとか、努力は誰かが見ているだとかもよくわからん。

いつかを期待するほど私に胆力はない。

絶対実現可能、そうじゃなくても、見込みが立つくらいじゃなければやりたくない。

そもそも結果を得る為に努力するのであって、努力自体は自己満でしかない。

これだけ努力したんだから、自分は大丈夫っていう自信を持つため。

努力をしようが、怠惰にやろうが、同じ結果なら後者がいい。

 

ここまでつらつらとたくさんの言い訳を並べたが

こんなくだらない湿った生き方も今日で卒業しようと思う。

自分ができない理由を性分のせいにするのはやめだ。

自分で自分にこれはできないと制限するのはつまらないし

なんか嫌だ。かっこ悪い。後悔ももうしない。

私は過去の私に許されたい。

かっこいい大人になったと思われたいのだ。

 

実家で母と会って良かったと思ったのは

あの家はもう私の居場所ではないと、はっきり脳裏に焼き付けたからだ。

小ぎれいになった家は、私が家を出たことは正しかったと示してくれた。

私は母が大好きなのだ。昔も今も。

知らぬ間に老いた母を見て切ない気持ちになんかなりたくない。

知らぬ間に死んだ母を見て葬式で後悔なんかしたくない。

 

今日、もう一度母と出会うことで、私は私自身の一つの未来を救った。

自分の中に縛り付けていた昔の自分を一人許すことができた。

 

だから、私は今日たくさんの幸せを抱えて眠ろうと思う。

 

癒しと勇気をありがとう、さばちゃん。

そして、おやすみ、さばちゃん。